なぜ飲み会に行きたくないのか?
結論から話すと飲み会に行きたくなくてしょうがない。
理由は3つ。
1.笑いたくないときに笑わなければいけないことで消耗する
2.そもそも会話すること自体がエネルギーを消費し、反動が大きく気持ちが沈むため
3.とにかく気を使う
3点ざっと書き出してみた。
全て対人折衝能力が無いというところに帰結しているし何もそれ以上掘り下げる必要は無いのかも知れないが、自分の状況と元々の情報を書き出すことで、何が無理なのかを考えていくことで少しでも茫漠とした不安を除去していこうというのが主旨である。
よってこのブログは誰かに向けて発信出来ている確証はない。
もし、何か共通点や自分と比較してどうこうと感じてくれることがあれば良いと思う。
1.笑いたくない時に笑わなければならないことで消耗する
感情の波が豊かな人とそうではない人が世の中には存在する。感情が無いと書く人がいるが、本質的に人間は自己の利害に関わることや、生存に関わることでも無感情でいることは生理的に不可能なはずである。
どんなに普段氷のように表情が変わらない人間でも、殺されそうになれば顔は歪むし恐怖は感じる。
よって、感情がないと書く人間の本質は(1)起伏を外から察知しにくい。(2)感情の動きに関与する事象が自らの近辺に極めて近いことに限定されるなど、俗に言う共感感情が乏しい人である。などが考えられる。
私の場合はこの(2)に近く、サイコパスだと何度もいわれ、実は鬱病になった時には恐らくそちらを疑われたようでロールシャッハテストのような物を受けさせられた。簡単な問診とテストだったので実際に何を調べていたのは教えてくれなかったし、「自分は雇われて週2で来ている外の医者で、ここのシステムは分からないからそんなに細かい事は出来ない」と言われたので、何か違う目的だったのかも知れない。
平たく言うと、自分の利害や生存に関与しない出来事に対してあまり気持ちが動かない。
例えば朝出社すると隣の人が「昨日部屋を片付けていた時に指をぶつけてしまって…」と絆創膏を貼った指を見せてきたとする。
観察したが、ほかの社員は「わぁぁ大変ですねぇぇぇぇぇ痛かったですか?」と自分が怪我したかのように返答する。
よくあることだが、自分の思考回路では
⑴自分が心配しても傷は治らない
⑵軽微な怪我であるため対処の必要はない
⑶絆創膏を貼るという処置も間違えていない
⑷関節部の数であれば可動を避けるべき
などが頭に浮かび、出てくる言葉は「痛かったですね。今日一日は動かさない方がいいと思います。何か手を使う作業があれば代わります。」
となる。
自分としては⑴共感 ⑵対処の提案 ⑶サポートする意志の表明
と、人間が好む姿勢を全て提示しているはず、なのだがどうも「機械的だ」と言われ、もっと感情を込めて応答しろと先輩の社員にに言われたことさえある。
私からすれば思い上がりというか図々しいも良いところだと思う。
情緒的サポートに値しないレベルの指の怪我でそこまで感情を込めて話せばあっという間に認知資源※1を消耗して業務の遂行に支障を来す。
ところが世の中の人間は圧倒的にこの情緒的サポート、何より共感を求める。
飲み会は最たる例だ。
支局どうでもいい話について目一杯のリアクションを取らなくてはいけない。
きっとこういう席で自分の顔は小学生の間で流行しているが大人から見ると何が面白いのか分からないお笑い芸人がワイドショーでコントをやってるときに映る極楽とんぼ加藤のワイプより冷たい表情で見ているに違いない。
そういうところがとても人に好かれない。
顔の造作もあるかも知れないが、人間味がないと言われ、人を研究し続けた結果私は壊れた。
一度の自己破壊を経て、自分が人に寄せて人もどきの生活をするには無理があるため、ありのままの活動でなんとかしようという指針の元、自分と他の縮まらない壁の妥協点を見つけていきたいというのが昨今の課題である。
2と3についてはまた次に書こうと思う。
以上。